明治20年8月16日の日出新聞には市原の「い」の字の送り火のことが書かれています。
「愛宕郡市原村のいの字も点火」と。
いの字の送り火の地区は現在の京都市左京区静市の市原町。
(烏丸経済新聞より)
この地の市原山(現在の向山)にいの字が浮かび上がり、三条大橋あたりからも見えたのです。
標高426mの向山の山腹300m付近。
今でも歌い継がれるご詠歌があります。
『人も知る市原山のいの字こそ
大師の筆は今に残れり』
市原ではその年に家族の亡くなった家がいの字点火の奉仕をすることになっていて、負担が重くしんどかったので、続かなかったのだといわれています。
明治30年代ごろに途絶えたようです。
向山には火床の石積みがいまでもあるそうです。(わたしは未確認です)
江戸時代の地図にもちゃんと記載されていました。
2019年に新しいニュースがありました。
京都精華大の小椋純一教授が明治時代の「い」の字の他に、もう少し低い場所に「い」の字の跡を発見しました。
これは江戸時代中期ごろまで使われた古い「い」の字形で、その後、京都の街からも見えやすいように高度のある300m付近に作り直したのではないかということです。
小椋教授によると「元の低い場所のほうが地元の人々にとっては見やすいし、管理もしやすいのだが、町なかの人たちが眺めやすいように高い位置に移したのだろう」と。
送り火の観光化の流れは江戸時代からあったといえそうです。
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